昭和43年9月20日 夜の御理解
ただ今より昭和43年9月20日夜の御理解を頂きます。今日夕方ここへ座らせて頂いてからすぐ今日の菊栄会の事をお願いさせて頂きました。そしたらね、頂きますことはね、こういう字を頂くんですよ。お知らせの中から、「生き神とは、人間形成でもあり、目標でもあります。」「生き神とは人間形成のビジョンのビジョンでもあり、目標でもあります」と私はこのビジョンと言うのが分からんから、茂雄さんに聞かして頂いたんですけれども、まあ指針とか、やはり目標と言う意味が二つ重なるような気がするんですけれども、それが結局お互いの信心の指針と言うものが目指すと言うものがどこにおかれておるかと言うこと。今日教師会がございまして若先生が*教会にあちらに前にも話をいろいろ聞かしてもらい、総合さしてもらいますと結局はどうしたならば、人が助かるか、どうしたならば、若い青年の信者やら、少年少女会やらが立ち行くか。育つか言うようなことが何時も話の焦点になるらしいですね。ところがその事実はどこの教会でもとくに久留米関係なんかは、まず、少年少女会が、青年会でも会員の様な状態あっても形だけと言うた様な状態ですから、これはね、私は思うんですけれども、何時も又、問題になることなんです。それはね、金光様の御信心はね、自分だけの助かりであっちゃならない。人が助からなければいけない、と言うようなふうに強調されます。ところが、私の考え方はどこまでもね、これを頂いて私のいわば、一つの指針と言うか、信心のめざしというのは、ここなんです。金光様の信者はみんなが生き神金光様になれる稽古なんだと私は思うのです。いわゆる、人間形成のビジョンであるということです。又、それは、もちろん私どもの目標なのです。ここんところに根本がめざしとしときませんとですね。もう全てのことが難儀になって君です。ここんところがですね。本当にめざしがそこにおいてあるとね。もう本当に信心がそれこそ日々、日進月歩で進んで行くです。今日、私菊栄会の事についてから、そのことを頂いたと言うことはどういうことか。ここに菊栄会が出来ましてから、何年になりますでしょうか。菊栄会の言うならば、合楽の信心のみんながいうなら、憧れの的にしておる会なのです。ですから、菊栄会と言うものが言わば、菊栄会が生まれた目標ビジョンと言うものが、はっきり打ち出しておらねば、いけないということ。唯先生を中心にして信心の稽古をさせて頂いておるという漠然としたものではなくて、ならどういうことに目標をもって菊栄会が育っていかねばならないか。もちろん、その名が示すように菊が栄えると言う様にですね。菊と言うのは合楽の信心を言うのでありましょうが、いわゆる、合楽の信心の御非礼というか、発展、繁盛と言うものがお互いのめざしでなからなければならない。そして、お互いの信心のどういうあり方にならして頂いたか、その真がすべてそこに出てこなければ、ならない。自分が一人無信心になると、もうそれだけの合楽の信心の勢いが欠けるのだと言うような自覚、そしてから、私は思うて見るんですけれどもね。そして次に出来ました松栄会なんかの場合なんかでも、そこで一つはっきりしなければ、ならないのですけれども、これは、どうでも菊栄会の皆さんがおかげを受けなければ、松栄会の進めていく、いわば、たとえば、利潤がはっきりしても、**がはっきりいたしてもまず、その前に菊栄会の皆さんがおかげを頂かなければ、おかげを受けれれないような感じがする。松栄会の人たちが、たとえば、合楽の御信心の発展、御非礼を願わして頂いての信心、そこにいわば、中心とも中堅ともなっての信心がいよいよ合楽の御非礼にとどまらずに教団の御非礼、教団の繁盛のそれにつながっておらなければ、ならないというところから、松栄会が生まれて来るのです。ですから、松栄会の場合はもう道のためにですね。指針と言うものがおかなきゃあならん。それなら、菊栄会より松栄会が大きくなる。それは、育っていく順序だ。合楽が育って行く順序なんです。そこを菊栄会の者は受け拾わっておる。いうなら、松栄会の人たちの足場にもならわなければならないのが、菊栄会なんです。菊栄会がまずその合楽の御非礼を願い祈り、そしてそこにいわば、合楽全体の助かりがその助かりがいわば、道の肥料にもなって行きゃあ、お道の御非礼にもつながっていく。そういう役目を松栄会の者がバトンタッチしておかげ受けて行くのですから。これは、合楽の信心の育つ過程なのですから、松栄会が大きくて小さいと言うこっちゃない。その根本になるのが私自身の信心ですけれども、なら私の場合にです。もちろん、それは、言葉を変えれば、人が助かりさえすればの信心によるのですけれども、そのためには、言わば、私が助かる以外にはない。これが私のいわゆるビジョンなんです。私が助かる以外にはない。これが、私のいわゆるビジョンなんです。私がいよいよより助かっていく以外ないんだ。だから、それは現在の教団には受け入れないんです。そういう生き方では駄目だと。人が助かる。だから、人が助かるために私が助からなければならないというのが私の生き方なんです。青年会がどうして出来んのか。どうして、若い人に信心が移って行かないのか。その工夫するよりまず、私が若々しい信心を頂くことなんです。まず、私自身が若々しい生き生きとした信心を頂いて私自身が助かる事なんです。私が助かっていけば、行くだけになら、ここで助かっていくと言う人が多くなっていく事になる。というといわゆる私の助かりはたくさんの人の助かりにつながって行くのだと言うて助からん人が助かって行くことが目的ではないと言うこと、私は問題は私自身がいよいよ助かって行くことなんです。いわゆる、私はどこまでもです。私が生き神様になるためなんです。生き神とはここに神が生まれるとおっしゃっておられる様に私自身が生き神になるために信心の精進をさせて頂いておる。私が生き神に向かっての信心の精進がなされていくことが本筋になってくれば来るほど、後にはまた生き神が続いて来るのが私の考え方なんです。私についてくる、いわば生き神の芽が繋げ会ってつづいてくる、という意味合いで結局今晩菊栄会の方達がですね。お互い信心のビジョンであり、目標であると言うところがどこにおかれておるという事を再検討しておる。しかし、そういう線に乗っ取っての菊栄会の現在の信心の動きと言うものが動いておるかどうか、それには、私どもの***と同じように助かるより以外にないと今助かる以外にないと言うことがそれがなら、合楽の信心の御非礼に繁盛につながっておらなければ、ならない。この辺の所が私ははっきりしとかないとならない。信心とは人間形成の示現でもある。示現とは又、目標でもあると言うことになってくるとですね。どういう問題がおきてきてもです。どういう家庭的な問題があってきてもどういう難儀な問題があっても、目指すところは私どもの楽になりたい。幸せになりたい。おかげになりたいと言うようなところにめざしがあるから、すぐそれが問題になる。どうでしょうね。私どもの心は真の心を求めての信心、言うならば、生き神を目指しての信心、ですから、これくらいの修業は、言うならば生き神を目指しての信心、ですから、これくらいの修業は当たり前じゃろう。向こうが腹を立てちゃいけん。こちらが腹立てちゃあ、もうこれは生き神を目指しての信心じゃあない。生き神になるためには私どもが真の信心を頂いて行くためには、これ位の事はなからなければ、実際は生き神とは言えないのだ。私はここに目標が変えられたら、みな解決するですよ。茂雄さん達のお届けもそうなんです。あんたの信心のビジョンはどこにあるか、それは自分たちが夫婦仲よう子供も無事育って、そしてお家が立派になって親子円満に暮らしてとそこの所だけの願いの様な信心であるから、問題が問題になってくる。もう金光様の信心はどこまでも生き神と言ういわば、神格というか、奥地というか、これをめざしていかなければ、いかんということ。それをもう少し分かりやすく言うと信心がめざしでなければ、いかんということ。おかげがめざしでないということ。それが、又、そのことが実に考えて見るとありがたいことなんです。これによって生き神の道が開けてくるんですからね。それによって真の信心がわからして頂くのですからね。そえによって生き神への信心の修業ができるのですから。実をいうたら、お礼を申し上げないとならないことばっかりになってくる。お互いの人間形成、いわゆる人間を作って行く意味合いにおいてもです。ただ人づくりとこういうけれども、まず人づくりと言う前にまず心づくりだということになるのです。その心づくりと言うのはどういうことかと言うと、何時もどちらへ転がしてもありがたいと言うような心を作って行く。これが生き神への願いであり、生き神への信者が進めていくものの思い方なんです。いわゆる、自分の心の転身というか、ころころと転んでいく心、ありがたいほうへありがたいほうへ転んでいく。どういう場合であっても、神様がこんなにして生き神への信心をあるかしてくださるんだ。生き神への修業をさせてくださるんだ。生き神への修業をさせてくださるんだ。本当の信心、人間の真の幸せの言わば、幸福のおかげを頂くためのこれが修業であると分からして頂く。私は皆さん、ここんところをよーく腹に入れて頂きたい。お互い信心の目標と言うものはね、どこまでも生き神金光様を目指す。これはみんなもそのようなおかげを受けられるとこそおっしゃる。このおかげをみんなに、そこで生き神とは人間形成のビジョンでもあり、目標でもあるということです。これを本気で分からして頂くと言うこと、問題が問題でなくなってくる。なるほど、人は育たんかもれん。問題が解決しないかもしれん。育たない。たとえば、問題がある。問題があることが育たないことがある。いよいよ、私をありがたいものに育って行く。よりありがたい私に育っていくところからです。育てようと思わんでも、おかげを受けようと思わんでも、おかげのほうがついてくると言うことになってくるのがですね。お道の信心じゃあないかと思う。ただ今晩もね、菊栄会なんかも私ども信心のいわゆる本当の菊栄会の大事なそのビジョンがどこにあるか。結局結論するとこのやはり、私が助かる以外にないことになってくる。私が助かることのためには、いよいよ信心の修行と言うものがなさらなければ、ならないことになってくる。ですから、私の信心がいくらついたってこれは鳥合の集になります。本当に助からして頂くものが私の周囲に集まったときに初めてこれが私の力になる。いわゆる、合楽の力になる。そういう力がです。そういう力をふんまえての信心を若い世代の人たちに***行かねばならない。言うならば、松栄会の方達がそういう合楽の御非礼を引き下げて、そしてこれを教団の上にお道の上にも現わして行こうと言う働きになってこなければ、ならないことになるのです。どうぞ。